個人的な体験
タフな善人であるか、タフな悪人であるか
わが子が頭部に異常をそなえて生れてきたと知らされて、アフリカへの冒険旅行を夢みていた鳥(バード)は、深甚な恐怖感に囚われた。嬰児の死を願って火見子と性の逸楽に耽ける背徳と絶望の日々……。狂気の淵に瀕した現代人に、再生の希望はあるのか? 暗澹たる地獄廻りの果てに自らの運命を引き受けるに至った青年の魂の遍歴を描破して、大江文学の新展開を告知した記念碑的な書下ろし長編。
↑これ。大江健三郎は「死者の奢り」は高専時代に読んだ覚えがあるのでこれが2冊目です。くどくどくどくどく~どくど直喩まみれの地の文が続く印象があり、読みにくくはないけど好きでもないです。でも最近よく考えていること(子供を生むということ。最近ちょっと年上のフォロワーの家庭に子供が生まれることが多い)を題材にしているので、気になって手に取りました。
大江健三郎は先天的な脳障害を持つ息子がいるそうです。
「個人的な体験」はその経験を下敷きにした作品ということで、露悪的に言えば「自分とまったくちがうところで人生を歩んだ人の自己開示見たいよ~!!」シリーズに連なっています。天地がひっくり返ってもわたしは誰かの父親にはならないので。
とはいえノンフィクション小説というわけではなく、生まれた子が正常ではなかった父親の考えること・その事実の受容にいたるまでの部分の真実味は感じさせながらも、彼を取り巻く環境や人々にはファンタジーめいた救いがあり、本作で批判を集めていたらしい「道徳的な安易さ」とやらはハッピーエンディングではなくそのへんであるべきだろという気持ちに。
たとえば赤子が生まれてすぐ、医者たちは「今日明日には死ぬだろう、そうしたら解剖しよう」と直接的にいうし、翌日赤子が強靭な生命力を持っているとわかると、その生存に打ちひしがれる主人公へ、「赤ちゃんのミルクの量を塩梅しよう」とまで差し伸べてくれる。昭和であってもそんな医者はいないんじゃないかと思えます。
著者自身が多分そうであったように、どのような子が生まれようと親にはそれを受容するかもしくは自分の手で殺すか(「タフな善人であるか、タフな悪人であるか」)の二択しか選べないし、間接的な殺人というファンタジーの介在する余地はないでしょう。現実、小説より怖くて無理すぎる。
ほんで言わずもがな火見子、こんな女はいません(完) 誰が指摘するまでもなくこんなに都合のいいインテリ穴付き友達は存在するわけがないのですが、しかし結局凄腕女とのセックスで救われたと感じるのは意味なくもないけどまやかしで、現実を受容するためにはその誘惑を意志によって捨て去る必要がある、という点が肝要なんだと思います。現実って小説よりマッチョ。
あとがきでは結末について執筆当時を懐古したうえでやはりあれでよかったのだ、と確信していましたが、今になって答え合わせしたらほんまにそうでド昏い話に書き換えなくてよかったね、と思います。息子が死んで終わりにしたとて、アフリカに逃げて終わりにしたとて、いくら「個人的な体験」がフィクション小説だとしても現実の息子が今も生きているわけなので。 なんか、ノーベル賞取った!ってあまりにも自分の生きている世界から遠い出来ごとすぎて重みのない「すごいなー」しか出てこないんだけど、大江健三郎が死ぬまで父親でありつづけたということは生活の重みがありすぎてすごいという言葉で表せないくらい尊敬します。 ほんと子供を育てている人間すごすぎるし先祖はみんな結婚して子供を産んでその結果自分がいるって信じられん(結論)



